日本から南に約3,000km離れた場所に位置する島国「パラオ」。実は、リゾートスポットとして人気のあるパラオの国旗には、日本と深い関係性があると言われています。
パラオの国旗は長方形の中に大きな円を描き、まるで日本の国旗と見た目が似ています。実は、「第一次世界大戦後に、日本の委任統治領となった経緯もあり、日本に敬意を評して日章旗をもとにデザインされた」という説があります。それが真実かは定かではありませんが、そのような憶測が生まれてもおかしくないほど、パラオと日本の歴史は深いのです。
ここではパラオの国旗の意味や成り立ちとともに、日本とパラオの歴史を解説します。また、パラオ特有の言語事情からわかる日本との関係性についても紹介します。
旅行や観光でパラオに訪れる予定がある方は、これらの歴史を知ることで、よりいっそうパラオの見方も変わるはずです。
パラオについて|国旗や基本情報
まずは、パラオの基本的な情報からお伝えします。パラオは、日本から最短4時間半でたどり着き、ブルーオーシャンが広がる西太平洋のミクロネシア地域にある島です。
日本からの観光客も多く、ホテルや市街地であるコロールでは日本語表記が多かったり、食事も日本人の口に合うものが多いのが特徴です。
- パラオの正式名称(日本):パラオ共和国(通称:パラオ)
- 首都:マルキョク(旧首都:コロール)
- 公用語:英語、パラオ語(アンガウル州では日本語)
- 日本との時差:無し
- 通貨:アメリカドル
- 人口:1万7,907人(2018年)
- 国旗:背景が水色で円が黄色という、綺麗な海と月が想像できる国旗。円が若干中心からずれており、縦5横8の割合であるとされる。
また、パラオ語は日本語由来のフレーズが多いため、日本語が通じてしまうことがあります。以下の記事でフレーズ集を紹介しているので、ぜひ読んでみてください。
パラオ国旗の意味や由来からわかる意外な真実
パラオの国旗は、1979年にデザインを決める一般公募が行われた際に選ばれた、John Blau Skebong(ジョン・バウ・スケボーン)氏(現アルモノグイ州知事の兄)がデザインしたものです。そして翌年、国会で採用し正式にパラオの国旗として制定されることになります。
はたして、パラオ国旗のデザインは日本国旗をもとにつくられたのでしょうか。ここでは、パラオ国旗に込められた意味と由来について、日本国旗と比較しながら紹介します。
パラオ国旗にある「美しい満月」と「海」が意味するもの
まず、国旗をデザインしたJohn氏は、「国旗のデザインである背景の青はパラオの美しい海、黄色の円はパラオから見える美しい満月をイメージした」と明言しています。このことからわかるとおり、パラオ国旗の青は、パラオの大自然を象徴する「美しい海」を、黄色の円は、夜の海を明るく照らす「満月」を意味していることがわかります。
また、当初のデザインでは国旗の「黄色の円」を真ん中に配置していたようですが、何かの拍子で少し横にずれてしまった際、「こちらの方が良いかも」と感じ、円を横にずらしたデザインが正式なパラオの国旗になったと言われています。これには諸説があり、あえて円の位置をずらすことで、旗がなびいたときの視認性を上げることを想定したとも言われています。
真偽ははっきりとされないなか、こうしてパラオの国旗は、円の位置が中心より左寄りに少しずれたデザインとして登録され今日にいたります。
このように、日本国旗とパラオ国旗の違いには、配色と丸の位置のズレという2つの点が挙げられます。
パラオ国旗は「日の丸」由来ではない
日本の国旗は、正式には「日章旗」と呼ばれています。太陽を表した「日の丸」には、古代の日本が農耕民族として太陽を神様として崇めていた歴史的背景が関係しています。このデザインが生まれたのは江戸時代末期で、日本の国旗として正式に定めらたのは、1999年のことでした。
これに対してパラオの国旗は、日章旗に敬意を表すために「あえて中心から少し横に移した場所に円を描いた」という説があります。しかし、デザインを手掛けたJohn氏はこれを否定しているようです。
それでも、パラオと日本の歴史を考察すると、日の丸由来であるという説が生まれるのも納得できますし、本人が意図していなかったとしても、日章旗に似ているため選ばれたという可能性もあります。
いまだに、これらの議論が繰り広げられているパラオ国旗の由来。国旗の成り立ちを考察するだけでも、国ひとつの深い歴史を知ることができます。つぎの章では、実際に起きた日本とパラオの歴史について紹介していきます。
参照元:https://fotw.info/flags/pw.html
日本とパラオの歴史
パラオと日本との歴史を紐解く、歴史あるエリアがパラオには存在します。そのエリアから読み取れる日本との歴史をご紹介しましょう。
パラオが親日となったきっかけは第二次世界大戦
パラオは親日として知られていますが、きっかけは第二次世界大戦の前後にあります。
元々ドイツの植民地だったパラオは、第一次世界大戦で敗戦し、パリ講和会議によって日本の委任統治領となりました。その後、日本の支援によって、ドイツ統治時代にはほとんど行われなかったインフラの整備に加え、野菜やサトウキビなどの農業の開発や、マグロの缶詰や鰹節などの工場を作り雇用を創出したのです。
日本の敗戦後は国際連合の委託を受け、アメリカはパラオを信任統治下に置きますが、アメリカへの依存を高めるために、あえて産業開発などを行わない「動物園政策」(zoo theory)を施しました。
統治時にインフラを整備しパラオの産業発展に貢献した点、大戦時にパラオ国民の死者を一人も出さなかった点などから、パラオ国民には親日感情が生まれ現在に至るのです。
激戦の地・ペリリュー島におけるパラオと日本の歴史
日本とパラオの関係を語る上で欠かせないペリリュー島は、南北約9km、東西約3kmと小さい島ながら、太平洋戦争中の1944年に起きた「ペリリューの戦い」の舞台となった場所です。
第二次世界大戦時、日本軍はフィリピンを防衛するために、東洋最大の飛行場をペリリュー島に建設していました。アメリカ軍はフィリピンを攻略するために、日本軍にとって重要な場所であるペリリュー島を攻めることになります。
当初アメリカ軍が最新兵器を投入し、3日以内で終わると考えていたペリリュー島の戦いですが、日本軍が洞窟に身を潜めて持久戦に持ち込みます。そのとき、日本軍の圧倒的不利な状況の中、パラオ人の中には自ら戦いに志願した者もいましたが、日本軍はこれを認めませんでした。
そして、73日間にも及んだ激闘の末、パラオ人の戦死者を0に食い止めました。しかし、約一万人いた日本兵はほぼ全滅したといわれています。
ペリリュー島には今もなお、統治使われていた戦車や大砲などがそのまま残されており、戦争の悲惨さを風化させないために、戦跡を辿るツアーもあります。現在は、700人ほどの住民が住んでおり、ツアーを通して船で訪れることもできるので、平和への祈りを込めて来島したい場所です。
日本・パラオ友好の橋「KBブリッジ」
パラオには最大の都市であるコロール島と、空港があるバベルダオブ島を結ぶ日本・パラオ友好の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)という橋があります。これもまた、パラオ人の親日感情を強める1つの理由であると考えられます。
コロール島とバベルダオブ島間には、1977年に韓国企業が建設した橋が架けられていたのですが、建設から数日経つと中央部分が凹み、それ以降は各国の建設会社により補修、補強工事が行われていました。
住人達が通過する際橋が崩れないように徐行し、万が一崩れても脱出できるように窓を全開にして走行するほど、いつ崩れてもおかしくない状況が続きました。しかし、1996年に橋が真っ二つに折れて崩落し、残念なことに2名が死亡する事故が起こってしまいました。
さらに、当時首都であったコロールの電気、水道、電話などのライフラインはバベルダオブ島から橋を伝って供給されていたこともあり、首都機能が麻痺し、「国家非常事態宣言」を発令するほど大きな被害を受けました。これは「暗黒の9月事件(Black September)」と呼ばれています。
その後、日本のODAの援助によって鹿島建設が耐用年数50年の屈強な橋を再建し、現在は誰もが安心して橋を渡れるようになったのです。
「日本・パラオ友好の橋」は、コロール島とバベルダオブ島を結ぶことからKBブリッジと呼ばれ、コロール島1日観光ツアーなどで寄ることもできます。橋をバックに写真撮影やバーベキューを楽しんだり、海では釣りやシュノーケリングを楽しむこともできます。
パラオ特有の言語事情からわかる日本との関係性
親日国であるパラオは、日本だけではなく世界中から移民が多い国として知られており、世界各国の言語が日常的に飛び交います。
のパラオの公用語はパラオ語と英語です。現地では、英語は第二言語とされていてとして使われており、おもにパラオ語が主要言語として使われています。そして興味深いことに、そのパラオ語のうち約20%は日本語が由来とされています。
ここでは、そんなパラオの言語事情からわかる日本との関係性について解説していきます。
パラオのアンガウル州は日本語が公用語
パラオのロックアイランド群の南部に位置するに「アンガウル島」。この島では、1980年頃アンガウル州憲法に則り、パラオ語と英語に加えて日本語が公用語として制定されました。それには、第二次世界大戦前にパラオが日本の統治下にあった歴史的背景が関係しています。
1914年頃から、戦時中に多くの日本人がパラオに移住しましたが、終戦後、パラオに住む多くの日本人が帰還を余儀なくされる中、唯一アンガウル州のみ、一部の日本人が残り居住を続けました。
やがてパラオはアメリカ統治下となりますが、アンガウル州では、それ以降も日本語が共通言語としての役割を果たしています。現在では、日常会話で流ちょうに日本語を話す住民は減ってしまいましたが、憲法には公用語に関する記述が今なお残されています。
日本国憲法には日本語を公用語と制定していないため、世界で唯一日本語が公用語に選ばれているのがアンガウル島という事実には驚かされます。
日本語由来のパラオ語フレーズ集
パラオ語の中で日本語由来のものが多く混じっていますが、今でも実際に500近くの単語が使われています。フレーズや単語だけではなく、人の名前や土地の名前にも使われているパラオ語がたくさん存在しており、日本人であれば馴染み深い言葉ばかりです。
たとえば、下記のような例があります。
【日本語が由来となったパラオ語の例】
- アクシュ・・・握手
- アサヒ・・・ビール(アサヒスーパードライ)
- アジダイジョーブ・・・美味しい
- アツイネ・・・暑いね
- アリガトウ・・・ありがとう
- イクラ・・・いくら(How much?)
- イレバ・・・入れ歯
- エリ・・・襟
- カビ・・・カビ(賞味期限切れの意味としても使用)
- カクジツ・・・確実
- キツネ・・・狐(うそつきの意味としても使用)
- ケンポ・・・憲法
- コンニチハ・・・こんにちは
- ショウガナイ・・・しょうがない
- ダイジョーブ・・・大丈夫
- ダイトウリョウ・・・大統領
- ダメ・・・だめ
- チチバンド・・・ブラジャー
- ツカレナオース・・・お酒を飲むこと(「お疲れさま」が転じたもの)
- ハエリ・・・流行
- バッキン・・・罰金
- ハンゲ・・・はげ
- ヒドイ・・・ひどい=激しい(太陽の光や雨の程度が激しいという意味で使用)
- フトング・・・布団(ベッドの分厚いマットレスも含まれる)
- ムリ・・・無理
- メンドクサイ・・・面倒臭い
参照:
日本語が由来となった数々のパラオ語からわかるとおり、先人達が築き上げてきたパラオと日本間の絆が深いものであるのは確かです。また、パラオ人が、日本や日本人へのリスペクトを抱いていることの表れでもあります。
現地に旅行する機会があれば、ぜひ日本語由来のパラオ語を使ってみてください。
パラオの国旗から歴史や思想を学ぶと、パラオ旅行はもっと面白くなる
実際に私もパラオに足を運んでみて、想像以上の親日国であることに驚きました。そこには先人達が築き上げてきたいくつもの絆があったのでしょう。そのように考えると、パラオと日本の国旗が似ているということには何か因果関係があるのではないかと考えてしまいます。
また、このようにパラオの歴史やパラオ人の思想を学びながら旅をすると、よりパラオ旅行を楽しめるはずです。
パラオに訪れる際は、紹介したKBブリッジの他にも、日本のさまざまな戦跡が残っている、バベルダオブ島やペリリュー島など歴史あるスポットにもぜひ足を運んでみてください。
(執筆:片岡力也)
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